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2007年12月22日 (土)

振り返れば魔法使い

あちらを立てれば、こちらが立たず。


よくあることだ。


そういうときの、切り札みたいな言葉はないのかなと思った。

あちらもこちらも、一言で同時に立ててしまうような魔法の言葉。

どっちも立てなかったのに、立てたことになってるような、もは魔法を。


「おまえら男だ( 高田延彦 )」


でも相手が女のひとだったらどうしよう。PRIDEももうなくなっちゃったし、そんなに効き目はファンタジーじゃないかもしれない。

手をかざして「ピロリロリ( ドラクエとかの回復系呪文 )」


痛い。


みつをのポエムを読む。


苦い。


前の会社で、ときどき回復系呪文はピロリロ唱えていた。今思えば、どうしてそんなことをしていたのだろうと思う。そんな記憶は消えてしまえばいい。円周率の途方もない数字のオンパレードのどっか一箇所に挟まって、見失ってしまえばいい。

もしくはそんないたたまれない思い出さえよかったものとして立ててしまえるような、応用の効く魔法を僕は探している。


たぶん、具体的な言葉じゃだめなんだろうな、と思う。言葉は意味があるから。

そしたら、こちらもあちらも立てるというより、カオスで混沌を呼び込んで相対関係とかめちゃくちゃにしちゃえば、どっちが立ってるのか分からなくなって、あとは平和国家日本の中で「まあ無事でよかった」という雰囲気が形成されて、ものごとは四捨五入的にすべてよかったということになるだろう。


叫びたい。

いや、もっと紳士がいい。


問いかけたい。

なにを問いかけよう。そうか、なにかを弁解しようとしてばかりいるから、あちらを立てるこちらを立てる、どっちを立てるという話になってしまうのだ。

問いかけるのか。


「どちらですか?」


いいかもしれない。あいまいで。紳士がいいのなら、

「どちら様ですか?」

いい感じだ。

昨日、キックオフしたプロジェクトで実際にあったこと。


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プロジェクトリーダー

「分からないことがあったらいつでも聞いてください。つかまらなかったり聞きづらかったらメールでも構いません」

早速分からなかったので聞く僕。ひととおりの簡単な質疑応答の末、

もうひとりのプロジェクトマネージャー

「分からないところを自分の力で解決するのも大事なことですよ。ウェブにはたくさん先生がいますから、そういうところで聞くのも手です」

「そうですね。分かりました」

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ここだな。この「そうですね。分かりました」を、「どちら様ですか?」と問いかけられるようになれば、分からなかったら聞いてと言ったリーダーも、自分で調べてというマネージャーも、どっちも立つたろう。

問いかけられたら答えるだろうから( たぶんこの場合聞き返されるとか? )、そしたらニヤニヤしてればいい。問いかけの内容自体に意味はないのだから。


日常を再構築するための自然発生的な民主的和平が降臨するのを、ただ待っていればいいのだ。


でもそんなこと言えるかな?

うーん。
でもこれはいいかもしれない。言えたらいいと思う。

問いかけてカオス。


恥ずかしさを超えられなければ、ほかにどんなスマートなやり方でカオスが呼び込めるだろう。

スマートでカオス。

スマートなのにカオスは難しいよ。


そしたら、やっぱり場違いなのに謝るとかか。

僕はひとに頭をさげることが割と簡単にできる方なので( だからダメなのか!と思ったけど、話が反れるのでスルー )、それなら恥ずかしくない。

困ったら謝って、話の主従関係が完全に崩壊して、つじつまを合わなくならせる( プチカオスと呼んでもいい )。

どうにも立ち行かなくなったら、「えーと」とか、「んー」とか言って、シンプルに受け流す。

シンプルが大事だと思う。言葉は意味になってしまうから。


よーし。

ここらへんならできそうだ。

明日からうまいこと立ち回っていけそうだぜ。


でも、よく考えてみれば、そういうことはずっと今までやってきた気がする。。


そうか。。


これはちょっともう、どうしたらいいんたろうかと思う。

こんなことじゃいけないと思って、立ち直りたくて、自分の頭に「ピロリロリ」とかやってみる。

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2007年12月 8日 (土)

溜め息で円周率を求めるように

甘いの以外は、好物である。甘いの以外のすべてに、躊躇はないと言ってもいいかもしれない。オートマチックのように、出てきたら食べる。こないだ食べシャコが意外とおいしくなかったけど、たぶんそのくらいだ。でも出されればまた食べるだろう。

ある日、ある偏食家に言われた。

「おまえは本当はなんでもおいしく食べてるんじゃなくて、味が分からないだけなんだよ」

新しかった。

目が覚めるようだった。

斬新すぎて、否定する理由がまったく思いつかなかった。チラとすら考えたこともなかったことだ。

それからも、そのことはずっと僕の中に残った。

それはたぶん、画期的な意見だったからではなく、あらゆる物事にあてはめることのできる訓辞のようなものに近かったからかもしれない。

僕たちはみんな、自らの主体性によって、感想を持つ。本を読んだあとの読後感は、本を読んだ当事者のものだ。お肉を食べておいしかったら、その「おいしかった感」は、食べた本人のものだ。

でももしそれがミリグラムとかリットルとか、絶対的な値であらわすことができたとしたら、僕の食べたお肉のおいしさは、なにリットルなのだろう。

広大な平野に僕たちの味わったおいしさバロメータが、僕グラフのようににょきにょきと林立するとしたら、僕のおいしさはどのくらいの高さまで伸びているのだろう。

ひょっとしたら野菜嫌いだけどお肉がなによりも好物みたいなひとが味わうお肉のおいしさは、群を抜いているのかもしれない。際立つように、相対的に、だから野菜が嫌いで、食べたくないのだ。

僕はまんべんない。だからどれもこれもそこそこの高さで、こじんまりとまとまっているのかもしれない。ひょっとしたら、お肉好きの人間の味わったおいしさ感を一度経験したら、自分の舌にがっかりするのかもしれない。

主観でしか測れないことこそ、丁寧に客観視するように努力するべきだ。

これはひとつの美学だ。

それを、その偏食家はすでに実践していたのかもしれない。だからそんな言葉が出てきたのだ。少なくとも、味を、客観視していたのかもしれない。

相当なことだ。

どんな女の子でも、ひとつでもいいところを見つけてすばやく褒める。これも美学だ。哲学の端っこにはいっていてもいいと思う。少なくとも、紳士だ。僕もそれを追いかけてきた。でも中には女の子のことを褒めるどころか、ブスだのデブだのケチョンケチョンに言うひともいる。

なんだ、話が肉から女に飛んだのかというと、そうではない。

ケチョンケチョンに言うひとでも褒めてしまう女の子というのは、そのひとにとっての「輝き度数」みたいなものは、なんリットルなのか。ひょっとしたら、まんべんなく褒めてる男の味わっている胸の高鳴りよりも、そういうひとの方が60デシベルくらいは高いのかもしれない。

こうして、「おまえは本当はなんでもおいしく食べてるんじゃなくて、味が分からないだけなんだよ」的訓戒は、あらゆる事象に置換され、僕をはたと考えさせる。

そして愚鈍な僕はいつまでも客観性について掌握しきれないまま、高い代償として、公平性を支払っているのかもしれない。

すべては暗喩だ。たとえば溜め息で円周率を求めるように。

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